ぼくは、この本を学校の図書室でも見たことがあります。でも手に取って見たのは、実は今日が初めてだったのです。
ぼくの地元は、戦前に東京帝大で細菌学の研究をして、数々の業績を残したという学者を輩出しているらしいです。なまえは木村吉野ヶ里といいます。
木村吉野ヶ里と聞いて、ピンときました。確かこの学者さんは、ぼくの小学校の出身者なのです!総合の時間に先生が話していたことがありますね。
次に、図書館の本を検索する機械で「木村吉野ヶ里」と名前を入れてみると、3件の本がヒットしました。そのうちの2冊は木村さん本人の書いた本で、旧字体の小難しいタイトルでした。でも県内の別の図書館に収蔵されているみたいで、読めませんでした。
あとの1冊は、1997年にあるノンフィクション作家によって書かれた伝記の本で、「木村吉野ヶ里-生命の作り出す神秘に魅せられた生涯-」というタイトルでした。
本は全部で200pくらいのハードカバーの本で、後ろには¥1800と書かれていました。外観は、タイトルの字体とか使われている写真とかが、ちょっと古臭くて、図書館の本だから、光沢のないビニールで表紙がカバーされていました。中には、いろいろ面白いことが書かれていました。
木村吉野ヶ里さんは、旧制の第二高等学校を首席で卒業後、東京帝大の理学部へ進学、性格はひとりよがりでワガママ、頭の良いことを鼻にかけ、他人を見下し、女の人が三度のメシより大好きだったけど残念ながらモテなかったので、好きだった女の人をストーカーしたりして、人間関係はかなり大変 だったらしいです。
でもまごうことなき秀才であることには違いなく、博士課程まで進学、専門は細菌の作り出す抗生物質についてだったそうです。その後30年間にわたり東京帝大で教授をつとめました。おもな業績として、東アジアに広く流行していた、とある寄生虫の引き起こす病気に対する抗生物質の発見があげられます。
その一方、特にその後半生において、私生活は乱れ、65歳の退官の前々日にテクノブレイクで死んでしまったそうです。
ともかく、彼の発見した数々の化合物が、東アジア全般の多くの人たちを救ったことは間違いなく、きっと人格がもっとすぐれていれば、もっと有名になったんだと思います。でも、そんな完璧な人間なんて、世の中にそう多くはないですよ。だって、頭がよければ、やっぱり自慢したくなりますもんね。
次の日、小学校に行って、校長室の前を通りかかった時、木村さんの肖像写真が飾られているのを見つけました。白黒写真で、口ひげを蓄えた立派な顔をしています。やっぱり、偉い人なんだなと思いました。もしも、なんにも勉強ができなくて、性格だけそのままだったらただの嫌われ者だったと思うけど、木村さんはすごい業績をたくさん残したので、やっぱり偉いのです。
それとも、勉強がなんにもできなかったら、もっとみんなからの風当たりが強くなるから、性格も矯正されたのかな?そういう問題でもないのかな?
まあいいや。
おわり。